薬品の公共性

薬品の認可は主に国が行っている。個人が使用するものなので個人が作ってはどうかと思うが、つまり個人に完全に合うようなものを個人が作るのだ。市場規模としては非常に小さい、むしろ『ない』といっていいほどの作り出した個人が使用するものであるが、それでも違法となるような成分や、副作用、長期的なものから超短時間にいたるものまで、緻密な検査が必要になることは言うまでもない。サルやマウスの助けを借りて臨床実験しているものだ。脳波のスキャンやらビルリビン値の測定まで。私はホーキング輻射を観測するために、「他人の重破揺の機械は他人には作れない」と言ったが、なぜならばそれは「他人の重破揺の機械が他人の重破揺の機械に干渉する」からだ。つまりは神経にいたるまで他人に干渉する(他人の干渉を受ける)のだ。この神経に関する他人の干渉のさいたるものが薬剤であると認識している。つまり「重破揺の機械のメインたるものが薬品である」というのだ。ここで他人の機械は他人には作れないとなったときに、私は、自分で使う薬剤は自分で作るように要求しているのではないか。となれば個々個人が国であれ、と要求しているレベルであるといえる。国防、薬品の認可、たばこの認可、神社の玉串量など、国で扱う認可取り扱いのレベルは非常に微妙で高度なものとなっている。つまり精神的や心療的であるものの度合いが非常に大きいのである。私のこのホーキング輻射を観測することへの取り組みが終わったとき個人や国がいったいどういった形になっているか。少なくとも我が富士市には市民が担えるような保健所があってほしいものだ。そのためには消防団で方面隊に一台は災害時用の予備の救急車があるような町内会を中心とした地域の応急手当普及員体制があり、地域住民に医療に及ぶモラルがあり、願わくば不要な薬品に対してのリテラシーがあって全体として医療費が抑制できる、市民によって医療が賄えるほどの地域一帯の医療体制であることを望む。ベロに一滴水を垂らして「ありがとう」というようなものではあってほしくない。苦肉の策で暴飲暴食のカーニバルをやっているものでもあってほしくない。ある意味薬物濫用の結果であるようなものだ。人の感情、交えてどうしても交えたくなってしまうような。抱き込むように不得手な笑みを浮かべて。そのほうが楽だからだ。医療を抱えてる男など煙ったいのだ。このホーキング輻射の観測の試みがすべてほとんどを解決し、前進を、大きな前進の一歩を与えると思っている。我々の正しい目を与える重破揺の機械(薬品)だ。あなたは煙たいのと見たい景色のどちらを選ぶ?干渉と責任は別々のものではない。自己責任ではあるが。誰かに抱き込まれたときの安心感と。自分を捨てれる感情と。その抱き込まれるものが幻でいってこいなものであらぬよう。医療への前進としてこの訴訟を刻む。