2タイヒミュラーとか。2,×2となっていて→「全体から」は眺められるのだろうか?

個人のタイヒミュラーだけでなく、わりとタイヒミュラーのタイヒミュラーもあるのではないか。2タイヒミュラーとか。2,×2となっていて→「全体から」は眺められるのだろうか?モノイドの作用しかない、のに。(モノイドにしかみえない、とか)事実をねじ曲げる口で実際に事実はねじ曲がっている。タイミングをずらしてそれが存在するなら、実際に〈タイミング〉は存在するんだろう。思想も入れかわる。『アップ』から『ロー』へと。裏拳のように世界がねじ曲がる。実際にみてみて振り返られるようなら、本格的に振りかえる。われわれは宇宙にたいしてこのような態度をとっていることは多々ある。だれにもほめられるわけでもないおそくにかえってきた子供の飯を、一から作って、またおいしく食べられる環境をつくるのは、本格的に同時にねじ曲げるのと相いれない。ところで光は90°に曲げられるのか?ブラックホールが突然出現することをあらわす。つまり、目の前の景色が90°曲がるということである。かつてペンローズさんは『ゴミ箱』のようなことを考えた。『なにをしょーもないことを』とかんじた人も多いかもしれないが、私は日本人らしく『時短』のようなことを考えたのである。ゴミ箱の件に関しては『典型的な欧米人』だとかんじてしまう私もわるいところがあるが、『典型的に考えるんじゃねーよ』といわれても仕方ない。なんでも放りこめるなら、それはそれはいいだろう。『もし、それを実はだれかが処理する』となったときに、『放りこむ』とかじゃなくて『どちらかというと流したい』とかんがえるわたしは、ペンローズさんの考えをカバーしてあまりある。なにかを作ったときにそれが『ひねり』であれば、〈そこにじぶんが存在する〉のは非常に居心地がわるい。(じつは宇宙際タイヒミュラー理論も、単純にいって『モノイドのひねりの作用』だと考えている。)アイゼンシュタイニオイドといって『ただの三角格子』ならば、それは『止まった宇宙』だろう。そこに『それ+自分がいる』は、→時間が止まりえない。わりとわれわれがせっせとものを作っていて→『じつはその、ものとは『作用』である。』となったときに、『自分が加わる』→『姿勢がわるい』となる。『自分がつくった世界が他人には都合がわるい』となったら、それは感情をもとめているのだ。