微分エネルギー、微分開始点

y=e^xの微分はy'=e^xは有名な話で、これはy=e^xの接線の傾きはe^xであるということをいっている。つまりe^xは微分に対しての、ある種の単位元であり、通常、微分をすると次元が1下がるものであるが、いったいどの次元のe^xであるか、まったく区別がつかない。微分を体としてみたときに、D(ab)=aD(b)+bD(a)が成り立つものを微分体というが、これは、“ちょっとずらしたときの加法の群が成り立つ”ことを示す。すなわちこのy(')=e^xには、“ちょっとずらして見た”という作業が加わっているのだ。あたかも外界の作用なしには、このe^xは、e^xとして認識されなかったかのようにみえるのだ。われわれが次元をみるときに、なんの作用もなしに、次元を知ることができないことをいっている。ものが伝わるということは、どこかの次元にバイオレーションを草像したからじゃないだろうか。われわれは様々なレベルで思慮をしているが、高次元の話は連続性があるにないに関係なく、ふと終わる。そのときのわれわれの行動は高次元であったときほどの緊張感はなく、ある種のバイオレーションを犯して日々をリラックスしている。この高次元の矛先をかわしているのが、日々の振動なのではないだろうか。われわれの焦点が一点に交わることはない。ウクライナの東部地区に草が生える。もしかしたら将来的にはずっとこのままなのかもしれない。草が生えるには過酷な試練だ。過酷な試練の土が標準状態に置き換わる、置き換えをいまやっているのかもしれない。われわれはどう生きるべきなのか。あの土地の街路に朝の通勤の女性が通りすがって、手の携え方は、人類の大多数が土地を通り過ぎるなにかのことをいって、多くのものが利用するために土地の明け渡しをゆっている。もうこりごりなのだ。わたしが眠るまにひと息つくのも。この土地にウクライナの人々が自分たちを誇れるような平和記念公園みたいなものを建てるのはどうか。平和祈念像は、朝の通勤途中の女の人がバリアでミサイルを跳ね返してる銅像がいい。