法律万能主義と統治者、社会構成員

社会は大きく分けて統治者と「文句を言う人」との構成になっていて、これによっていくらルールを作っても、『その本旨は伝わらない』になっている。アメリカの庇護の下、経済を中心に暮らしてきた日本にとって統治者という概念は『さらにどこか遠いもの』になってしまっているかもしれない。作られたルールをただ守ればいい人にとって社会を構成することもその成り立ちもわからないかもしれない。

あるルールを作って「こういった作業をした人には幾らの報酬を払いますよ」といった取り決めをした場合に、統治者としては「まっとうな働き」をした人に報酬を払うつもりでいる。だが、その作業をしている人の中では「その作業で報酬が支払われる」ことだけに魅力を感じて、『あたかもそういった名目のある作業で、実質は1回の作業を2回に分けただけ』という事実を最大化するものも現れる。

この意味ではルールを作って終わることは何もなく、常にそのルールに対して実際の経過をチェックする作業を引き続き行わなくてはならない。その意味ではいつまで経っても法律は万能のものではない。

人は誰しも親のもとに生まれ、ある意味では『作られたルールをただ守ればいい側』として誕生するのかもしれない。この世界のどこかに誰かしら「途方もなく強い人」がいて、その人に『擦り傷』を負わせたら「俺あいつに擦り傷を負わせてやったぜ」と自己満足に浸れるような状況があって、仲間内でも「すげーな、あいつに向かっていくなんて」などと暫く立派な扱いをされるかもしれない。

だがこういった状況が社会を構成、存続させていくのに大きな障害になっているのは間違いない。自分が脇役だと思っていてはいつまで経っても『害のある側』から抜け出すことはできないのだ。