パワハラの本質は人格否定にあるのだと思う。

パワハラの本質は人格否定にあるのだと思う。若い頃、人格否定されていた若者が自分が上に立つ立場になったとき若い人は人格否定のブルーオーシャンだと思って当然のように人格否定を行う。ある意味、懲罰や刑法といったものもこの精神に少なからず加担していることは疑えないかもしれない。なんらかの交渉をしようとするときに自分にも相手に不利益を与える手持ちのカードがなければ相手はあるいは社会一般は自分の話を聞こうとしないというのだ。誰かは(パワーハラスメントをする)自分が風呂を浴びるかのごとく無政府状態を望むのだ。それは権力を持ち、且つ相手には手持ちのカードがないという状態でだ。それは金か仕事かもしれないし、いや、ほとんど金か仕事だろう。だが果たしてパワハラが通用するような金か仕事に「顔」はあるのだろうか?一昔前には確かに「顔」のないような仕事で個人の尊厳を否定しても尚且つ価値のあるような(当時比で)仕事やそれに伴う金があったと思う。それは30人を幸せにできる仕事と50人を幸せにできる仕事があって、単純に50人の方を選ぶという単純な選択が世に数多くあったからなのだろう。だが今、個人の「顔」がないような幸せを今の個人が選ぶだろうか?これは資本主義の本旨に立ち返ってさらなる個人の幸せを追求したときに「顔」がない幸せというのは共産主義のそれでしかないということだ。誰かの幸せというのはそれが真にその誰かのものであるとするなら、それは誰の幸せとも「全く同じ」だというものにはならないはずだ。そのときに自分の幸せをカスタマイズできるのは「自分」しかいないであろう。その幸せを追求する権利を放棄するということは(つまりはパワハラに屈するということは)、「顔のない」幸せを追求するということなのだろう。これは危険なのではないだろうか。かつては確かに50人と100人を比較するような幸せがあったものだ。だが今単純に1人を殺して100人が幸せになるという量産的な社会が成り立っているだろうか?今はマイノリティーが尊厳を守られることによって社会が発展していっているのではないだろうか?私が好きなアーティストだって「なんでこんなにめちゃくちゃいいのに10万回とかしか再生回数が伸びないんだろう?」と思うことがしばしばある。話は逸れたが、要は人格否定をしないこと、画一的な価値観を押し付けないことが大事だと思う。