ステラレイアウト

俺の体。すべての人の手先の器用さを取り込んで。まだ走り出せる?手で地に根を張った。おお。深く。それはニッケルボルトの香り。工場ひとつ回せないで。何を偉そうにしてんだろう。半分は人の怠惰でできた。惰性のその指は。間違いなくニッケルの意志を含んでいる。巻き込まれてく機械を見てた。自分がいつのまにかその一部になるように。その全体像を知らないで。そこから抜け出せやしない。カスプレッサーの全部を。ステラレイアウトの全部を。テストカウンターの踊り場を。経営者だの組合だのが。製品もこのすべてのユニバーサルプロジェクターを。愛さずにいられるだろうか?また憎しみが世に吐き出されていくように。ほんとの愛で結ばれずに。工場に必要なものは愛。愛だけが世界を作っていく。もし失敗しても愛をもって取り返せば。安くても儲からなくても。受け取るものにもよりわかりやすく。工場の頂点はNASAかもしれない。プロダクトチャンピオンは全員なんだ。重量級プロジェクトマネージャーの不透明性が問題なんだ。政治の入った商品。が品質を低下させる。例えば人間関係で得たプロダクト。手持ち無沙汰で見つめ直した自分。低級感と高級感を同時に出す。良い商品はいつも低級且つ高級。つまり安くて良い。稟議の基本。これをすべての従業員に。発信すること。そしてジョブローテーション。凝り固まった人間関係は危険。そして非明示的な管理機構。mild indeterminaciesだ。それの根底にあるのは善の循環だ。何かを急に変えようとは思わないが、「足るを知る」知れないでは困る。こうすると人を見た目で判断し、従業員を「悪」だと思えば厳しく管理するようになる。そして中小企業に積極的に手を差し伸べることだ。人材交流などを通して。これは会社の利益には一切ならないかもしれない。だが「製品はつまり人である」。マクドナルドのマックもだ。ほんとの製品は人であろう。私は食べ物を食べたいのではなく(良いあるいは悪い食べ物を食べて)その結果手に入った「人」が欲しいのだ。それを考えたら(悪しき品も商品)であろう?ワルめの男みたいな。あいつは不良の戦闘機だ。まるで。てんで違う方向を目指すロケット。目的も理由もない。ただすっ飛ばして宇宙ゴミをばら撒いただけだ。大変危険な宇宙ゴミをばら撒くのは人間だけじゃないか?果たしてばら撒かれた宇宙ゴミと飛び交う流星群は等価か?とにかく俺は飛び出したかった。そして帰れなくなった。生き延びる技術もこんなオンボロロケットで出たもんだから不時着さえもできない。火星にたどり着くことも。そこらのソーラーバランストステーションにたどり着くことも。理論上では同心円上にいくつも滞在させることが可能だ。そういえば太陽の周りを回る「ステラ衛星」なんて聞いたことないな。意味がないからなんだろうか?だが意味のないことはない。やってみれば視野も拡がるしめちゃ有益だ。よし。これを俺がやろう。なんとなくそうすると協力体制が途絶えるな。いつのまにか個人の事が人に絡まり、自分だか組合のためだかはわからなくなるものだ。だが本当の利益は誰のもんでもないだろう。「ステラにぽっかりと衛星が浮かんだ」ただそれだけのことだ。俺も人も結局はそうやってできた「新しい天気」に「普通」をシフトしていくだけだろう。あっ。太陽の周りを回るから「人工惑星」か。現代は消費者が情報能力を高め、企業の優位性はないといわれる。商品サイクルが短く、「早く作る」が重要だといわれる。高い技術とチェック能力が問われる。人材の能力のリレーを考えたとき「モテたい」というバイアスは徹底的にそれの邪魔をする。人間のインフラストラクチャーの継続を最も邪魔しているのがこの格差だと思うと結局リレーは「無償の発信したいという想い」に頼らざるを得なくなるが、それもまあうまくいっているし、コロナが収束してその傾向がなくなるということもなさそうだ。やはりこのバイアスを解いていかないと、モテない人はモテないままで、モテる人も人間関係がぎくしゃくし、何も良い事がない。フレームリレーもネット上の蓄積により、より簡単なものになってきているだろう。こんなに徹底的にというくらい買い手市場なのだ。むしろ売り手市場が存在していたことぐらい現代人には理解不能だ。生活費のある年金暮らしのリタイアメントが設けも要らなくただ同然で売っているのが今は当たり前なのだ。むしろそういう人でしか商売できない。今は儲けを考えない人しか商売にならない。パイロットスタディーは絶対必要であるが、いかんせん今の子たちはぶっつけ本番にいい格好しいだもんで、パイロットスタディーを「だっせえ」と思うのだ。むしろすべてがパイロットスタディーでできていることを今の子供たちは知らない。ハイブリッド機構もヒートテック機構も。投資家は逆に「徹底的に愛を排除」しているだろう。あれはもはやゲームに過ぎない。むしろ金の扱いなんて人の面からみればこんなもんだ。いくらか注ぎ込んで徹底的にゲームをする。金のいくらか分かはゲームに費やすであろうからあとは「幾何学ゲーム」なのだ。「情報幾何学」といってもいいが、これについて求めるゲームの形がなんであるかは私には知らない。それこそ「全個々人類の宇宙の形」かもしれないし、半分1/4は愛かもしれない。環境不確実性についても問いたい。アフターサービスに取り組める非常に強大且つ柔軟な技術と誠意が必要だろう。環境不確実性については。多角的技術を持っていて低所得で結婚できるかどうかもわからないから尚更ネットでの活躍を期待するだろう。「リアルに技術を振る舞える場があるのか?」これがゲーム的なノリで求められるかもしれない。金にはならないが新しい市場だといえる。人は金よりも「やってやった」という感覚を求めるものだ。いずれにせよ「アフターサービスに取り組めるほど高いレベルまで」と言いたい。このあたりをリアルまで繋げたいものだ。かえってこういう子のほうが革新的なもの、つまり技術的に不連続なものに対応できるかもしれない。楽器メーカーといえば対消費者向け志向しがちだが、金型やプラスチック部品にしても最近のニーズとしては最後はハンドスケッチに頼らざるを得ないかもしれない。それほど今の消費者のニーズは移ろい易く、対消費者向け志向だからだ。製品を愛するという意味で「私は車を愛しているか」といいたい。答えはノーである。それどころか「楽器を愛しているか」といってもこれもノーである。ただ「なくてはならないことはわかっている」これは愛ちゃんのような引用頻度が非常に異様なまでに高い女の子についてもいえる。なくてはならないことはわかっているから愛すとは些か汚いではないか。ただ一目惚れのあの感情だけは忘れたくないな。