ハミルトニアンもラグランジアンも真の意味ではエネルギーではなく、熱浴である。簡単に人間の、生物の境界を越えることができないからである。ハミルトニアンもラグランジアンも、エネルギーか、ときかれれば「ちがう」と言われてしまうだろう。あたまのてっぺん頂点にのったそれはいったいなんなのだろうか?きおくか?みらいか?からだとはかけはなれたそれはボールを追うサッカー選手みたいである。たしかにそれはわたしのからだの一部なのだ。それはわたしの声はわたしにしか出すことはできないし、だれかが含まれる金属の含有するこえをだれの死もさまたげないようにいうことはできない。私の歌は私にしかうたえないのである。だれかが『みる』ことによってそれは「避けられない」ものとなっていた。それはネットごしにみても画面ごしにみてもいっしょである。ハミルトニアンであるか、デルタ関数であるか、それはまちがいなくエネルギー(負のエネルギー)がつたわっているのである。「知りたい」とおもうきもちでひらいた画面もわたしからエネルギーをうばった。それはどこかにちょちくされているのか。わたしから返されてくれるのか。殺す以外のほうほうで。殺す、の消え失せた「記憶」はどこへいくの。アルツハイマーは記憶喪失である。記憶喪失として出された記憶はどこへいくのか。他人とやっているか。ものとやっているのか。粘りづよくわたしにまとわりついているのか。ボタンを押したらそれは反転してわたしにまとわりつくのか。結婚したら「ものとのきょうかいせん」を決めるのか。おばさんはわたしに「もののうばいかた」をおしえてくれるのか。ちょろいもんよ、といってふたりきりになってわたしをどうしようとゆうのか。ほら、すきなだけ男をえらべよ、とでもいうのか。ハミルトニアンとかラグランジアンみたいなやつだ。ハミルトニアンとかラグランジアンふうがいい。とおもっているのかもしれない。可積分形は他人にはできない。