物理屋

物理屋がどんなイメージで数式を使っているかは、わからないが、その数式を組み合わせることによって、《このような宇宙が構成できる》と、《できる》理論を行っていることは間違いない。1頂点1ループのユニバースを、このように構成した超弦論に併合したときに、『ショートカットが起きる』→「つまりは一般大衆は納得がいかない」となると、ミラー対称性には素朴な欠陥と干渉が存在している、との問題点が浮き彫りになるし、それを根拠としてまたシーソー機構プラズマを考え直すこともできる。考え直すきっかけは『距離空間の短さ』であったり、それによって思考に『手術が発生している』=これも仮想的なプラズモンであるのだ。つまりはここでトレードが成り立っていないことになるし、思考の一回転、『取捨して、噛み砕いて、理解する』が、相手によって支払われている、または、自由に取り繕える金である(自由に受け取って解釈していい)、古典風にいえば『名声化できる』が発生しているのである。金を懐に差し込む物理もある。物理はちょっとトイレなのだ。わかっているのは、「働きかけ」によって「結果」が変わる、ということだ。永遠の方程式も、働きかけによって結果が変わる、といっている。宇宙のすべてを記述する方程式のいっていることは、「働きかけによって結果が変わる」だ。『明かす』ことが、『結果が変わる』なら、『明かしても明かさなくても結果が変わらなくしてほしい』『明かさないでほしい』双方ある。『まっすぐみる』にも距離がある。空気になった軽々しさ、透明人間。重さも。人の光の運動量による粘性に引きずられて、絡まる、すべてのシートが皺を持って絡まっている。一本の糸にも釣られているようだ。見よう、と思って働きかけ、まっすぐみる、ことは結果を、因果律をかえていく。予知も結果も。予知する《働きかける》エネルギーを加える、と予知した《期待した》結果が得られるかどうか。針時計を歩くことも。懐に入れた手は。生きていける。針時計を身にまとって。軽いことをいっている。たいしたことをいっていない。すべては上空の闇(よる)のなか。