毛の生えた波

街を歩く。バス停に立ち並ぶのは翼の一等地。風を浴びる。息を吸い込んだら扉が開いて飛び立てるような気がしてる。それだけで向こうの世界がやってくる。部屋に座り込んでたのはoppression.ケータイのページを捲って幸せな部屋を転々としてただけ。それでいいような気がしてた。誰かに与えられるもんだったら。この部屋も向こうの部屋も。天井は低くて嘘が半分あるような気がしてる。だから昨日読んだ本にも壁があったんだわ。他の誰でもない。私が作った本は世界を紡いでいくステッチがボロボロのやつ。風を編み込むようにして見えない糸で世界を繋いだ。彼が飛行機を欲しがったけど私には毛布だったわ。そんな不思議な布織物。暖かくてしょうがない飛行機。動力はいったい何ですか?わからないけど毛の生えた波みたいだったわ。オーガニックな飛行機なのよ。もうすべてがそれに包まれているような。ただの「鉄の塊」に見える飛行機やロケットは女子にはウケまい。「魔法の絨毯」のような温かみのあるデザインでなければ宇宙産業に女子が参入しようとは思わないだろう。数字にしたってそうだ。温かみのある数学でなければそれは「敵」に違いない。悲しい結果を発見したとしてもそれをトリートできるようでなければ向こう側にある「機械たち」の先制攻撃にすぎないのだ。このように我々は機械たちから人間性を守っていかなくてはならない。そんな時代である。俺もなんとなくそう思っていた。「鉄の塊は取っ付きにくい」例えばバイクなんかがそうだ。それは我々の生命の中にある何か。つまりは本質的な物理として宇宙も我々の精神や体の中にある鬩ぎ合いとして存在する。女子であればその危険に対しては尚更なものだ。異物はいつだって怖いものだ。我々はそのエッジに乗ろうとしているのだから認識を変えるということはその物理自体を構成することであるのだ。宇宙空間が我々の部分として有機的であるように。答え方が有機的でなければならない。我々が誰かが「異物」と感じるような空間の話をするとき。それが「隣の宇宙」へと橋渡しするときのやり方であろう。受け取れないほど攻撃的であってはならない。それは機械に支配されることに等しい。無論今は支配されている部分もあろう。誰だって裸一貫で今は系外に飛び出していくことはできない。手を伸ばす我々もまた誰方かの手と心意気によって支えられている。それは巡り巡って我々が向かい合っているということなのだ。いつでも宇宙の向こう側と。「科学と女子の関係」は今は絶対ある。つまりは「異物」と。「異物」を取り入れるのは本人でしかできないものであってそれは人間的なものなのだ。決して証明された数が自動的に行うものではないし、最後の一人になるまで我々は「優しい気持ち」を持ち続けなければならない。そのために今は数学も物理もあるべきなんだと思う。物理こそそういったものだ。小さい相互作用を無視してクリスタリンが成り立っていると思ってはここから先には進めない。遠アーベル結晶を我々は考えていかなくてはならない。本を読むこともある意味異物を取り入れることなのであろう。我々はその取り入れ方を考えていかねばならない。ひとによっては死の口づけとなることだってある。あるいは気づかぬうちに空を飛べることだって。物質もまた我々を取り込もうとしているに違いない。あるいは取り込まれた人間が話しかけてくることも。ある物質を政治的に予算を多く取るよう働きかける者はそれだ。「車」だったり。それは「一枠」として遠アーベル結晶を形成している「物質様」の「流れ」の「流体」であるといえる。事実一台の車である以上に概念として流れる「組み合わせ結晶」であるのだ。それをシュレディンガー方程式であらわすのは容易なことではない。ある様相で結びまたは流れとどまるところを知らない。形として切り取ることは非常に困難である。だが我々はこの努力をやめてはならない。我々は現在この「結晶の中」にいるかもしれないからだ。真に人としてあろうとするならこの結晶に対してさえ我々個々の様相は異なる。真に一つの結晶はこの世に同じものはないし、「同じ時」もない。「小さな部屋」に取り込まれる。いつだってその「枠の潮汐」は我々を取り込もうとしている。「同化」にも近いものだ。そして我々は動けなくなってしまう。自らが「異物」としてのフラストレーションを抱えながら。【「フレイマー」としての作用】とでもいうか。YouTubeが10万再生いってからかあまり売れたいと思わなくなった。それよりか一人一人にちゃんと話し掛けられることが大事だと。